さやうなら

その男と出会ったのは、とある小さなバーでのことだった。

数席しかないカウンター席の真ん中に腰掛けていたその男は、手持ち無沙汰にグラスの中の氷を回していた。

私はいつものようにカウンターの左端に座って、いつもの、を頼んだ。仕事帰りの空腹にはさぞ沁みわたることだろう。

「ここにはよく来ますか」

マスターからいつものを受け取ると同時に、男が話しかけてくる。

「時々、ですかね。時々来ます」

「さうなんですね」

男が煙草を取り出す。

「僕は初めてです」

そういってタバコのような細い指でさらに細い煙草を挟むと、銀のジッポでしゅっと火をつけ、ふわーっと大きく息を吐く。それから、仲良くしてやつてくださいねと男は笑った。

その次の週末、またいつもの時間に立ち寄ると、例の男がカウンターの真ん中に座って、今度は煙草をふかして待っていた。

「ああ、また会ひましたね」

そうですね、こんばんはと男は微笑んだ。

私は、やはりいつもの、を頼み、酒が来るのを待っている間、男がナッツをぽりぽり咀嚼する音を聞いていた。

「実はけふ会へるかと思つて、待つていました」

私は少し苦笑いをして、会えましたねと答える。いつもの、を頼んだのに、口をつけるとなんだか舌が焼けるような熱さだ。

「至らぬことを伺ひますが」

「はい」

「あなた、おわかりでせう?」

「何がですか?」

「いいや、言はなくたつておわかりのはずだ」

「だから何が」

「僕の、しやべりかたです」

「それが何か」

「変でせう?」

「そうですか」

そう答えると、男は肩をすくめて「あなたも意地悪なお人だ」と皮肉っぽく微笑んだ。

「昔からなんです。といふよりも、さういふ村の生まれでね。今や限界集落にも名前を挙げられてゐるやうな土地だけど、昔は美しい段々畑の広がる長閑なところでね。あんまりにもしづかで奥深いから、ちつとも言葉が新しくならないんだ。僕はわけあつて東京にでてきたけれど、初めはほんたうに言葉が通じなくてね。困つたもんでしたよ」

男の話に耳を傾けているうちに、グラスの氷が小さくなっていた。

「それでもやつぱり土地の言葉が身についてしまつているのか、最後の最後までこのしやべり方だけが治らなくてね。傷跡みたいなもんです」

そういって男はこちらにぐっと体をむけると、まつすぐな目でかういふ。

「あなたには聴こえるでせう。この旧仮名が」

私は少しおいてためいきをつく。そして胸元から拳銃を取り出し、男に向きなほる。

「信じられない」

「かもしれないね」

「見逃すわけにいかない」

「知つてるよ」

男はこちらに一瞥もくれず、ちびちびと飲むのをやめない。

「可哀想に。手が震へてゐる」

「怖く、ないの」

「怖くないね」

「どうして」

「だつてあなたは撃てないでせう」

「さういうところ、昔から最悪だつた」

さういうと男はふふと笑つて、そして私はしづかに銃を下ろす。

「相変はらずそんなおもちやを持ち歩いてゐるのか」

「おもちやじやない」

「おもちやでせう。使へなければおもちやだ」

私はグラスの中を急いで飲み干すと、荷物を抱へて、出口を目指す。

「もうこないの」

「来ない」

「残念だな。せつかく会へたのに」

「もう二度と会わない。さよなら」

「さうか。さやうなら、また」

耳だけが火照るなか、雪が降り始めた。